先鋭化して頓挫するパターン

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〈なぜ選択肢を狭めるのか?〉

例えば何らかの政治的問題があったとして、解決策としてA、B、Cの3つが提示されているとする。
どの解決策も確実に問題を解決できるとは考え難い。
こうした場合にどのようなスタンスを取るか?


一番賢明なのは「A、B、C全ての選択肢を考慮に入れ、状況に応じて最適の手法を選ぶ」ことだろう。
ただ「複数の選択肢を頭に置いておく」にはそれなりの労力がかかるし、「不要な選択肢を捨てる」ことは精神的に心地よい場合が多いので、フツーの人間は一番見込みのありそうな選択肢以外を捨ててしまいがち。
人間関係が絡んでくるとさらに厄介で、私的に嫌っている人間と共闘する道は、それなりの効果が見込めるとしても除外してしまいそう。


実際に選んだ一つの手法だけで問題解決を行おうとすると、やはり壁に突き当たる場合が多い。
そこで柔軟に方針転換できればよいのだけど、他の解決策の提唱者を散々批判した後だったりすると、なかなかそういう判断はできない。
往々にして、自分でも方針の転換が必要だと感じながらも、現在の解決策に固執することになる。


〈必要なのは希望と絶望〉

常に幅広い選択肢を視野に入れておくためには、まず「どの選択肢も確実ではない」ということを理解しておく必要があるかと。
これには相応の経験が必要だと思う。
いろいろ失敗した経験があれば、安易に一つの選択肢を有望視し、他の選択肢を切り捨てたりしない。
逆にそういう経験がないと、一つの解決策を見つけた時点で思考停止してしまいがち。
そんなわけで「絶望」を抱いていることが一つの条件だと思う。


もちろん、他の選択肢に可能性が見出せなければ代替案として考慮しておくこともできないので、「希望」も必要かと。
これも経験によるところが大きいだろうけど、文書や伝聞情報で可能性を見出すこともできそう。
科学の「難問」の場合、「十中八九解決できる」という有望な選択肢は通常存在せず、「成功数見込みが数%」という選択肢を無数に用意して解決を試みるケースが多い。
「数%の見込みがある」選択肢をピックアップするには、ある種の楽観的な思考も必要になる。


あとまぁ選択肢を捨てる場合でも、過度にその選択肢や選択肢の提唱者を非難して悦に浸るようなことをしないだけで、行き詰った時に再検討できる可能性はずっと上がると思う。
「そんな悪趣味なことは…」と思うかもしれないが、これはほとんどの人間がやってることだと思う。
要注意。(自戒含む)