「適切な指導」についてのケーススタディ・その1

twitter上で「論文の草案を早く見せなければならないが、まだ十分に書けていないので見せたくない」という発言を目にして、強く共感しましたし、結構「指導」における重要なポイントなのではないかと思ったので、少し考察してみようと思います。


理想的には「その段階で書けるだけの内容を書いて、評価してもらう」のがいいわけですが、なかなかやる気が出ずに「書けるだけの内容を書く」ことができない場合には、「自分でも不十分と分かるが、とりあえず見せて、もらえるだけのアドバイスをもらい、また不十分な点を指摘された際の負のエネルギー(悔しさ、恥ずかしさ等)を書く意欲に繋げる」というのが次善の策でしょう。

指導する側も、指導される側がその戦略を取るように仕向けるのが巧妙と言えます。


その場合重要なのは、「草案の質が低かったとしてもそこまで酷評しない(まして人格や資質を否定しない)」こと。

なぜなら酷評されることが分かっていると、「不十分な段階で見せる」ことが(心理的に)難しくなり、「自分で満足できるまでは見せない」という戦略を選んでしまうからです。

もちろん、すぐに自分で満足いく質のものが書けるのならいいですが、そういう人間はそれほど多くなく、結果的に「いつまで経っても草稿すら書きあがらない」という状態になってしまいがち。

これは指導する側にとっても好ましいことではないでしょう。

(たまに「なぜ学生が指導を受けに来ないのか理解できない」という人がいますが、指導が厳しすぎるのが原因の場合が多いのではないかと。まぁ殊更優しくする必要はないんですが、過度な叱責はどのみち学生の能力の向上に寄与しないので、人材を育成する気があるなら慎むべきかと)


指導する側と指導される側が、ともに上記のことを理解し、(論文作成等の)早い段階から密に連絡を取れば、十中八九上手く物事が進むと思います。


上記のような話はどちらかというと指導者の方が理解していることが多いと思うのですが、指導者が理解していて指導される側が理解していない(かと言ってすぐに書きあげる生真面目さはない)場合には、まぁ一言「そんなにキツく言わんからとりあえず不十分でも一度見せに来い」とでも言っておくのがいいんじゃないでしょうかね。
(そんな人格者には今のところ会ったことがないですがw)
あるいは草稿の質よりも締め切りの厳守を優先するような発言があれば、遅滞なく物事が進むかもしれません。


厄介なのは指導される側がそれを理解していても指導する側が理解していない場合で、指導者が「酷評」することで結果的に草稿の段階で高い質が求められてしまうわけですが、まぁ指導する側の行動理念が変わらないと思ったら、諦めて「不十分な草稿を見せて酷評される」か「どうにかやる気を出して早い段階で草稿を完成させる」かを選ぶしかないですね…


どちらにもそういった戦略が無く、指導する側が(酷評はするが)締め切りに関しては放任で、かつ指導される側に強い克己心もないと、高い確率で(論文作成等は)頓挫するでしょうw


まぁどちらが悪いという話ではないんですが、指導する側とされる側のコミュニケーションが円滑になるといいよね〜というお話でしたw

あと「(論文等の)指導」には知識や洞察を与える面の他に、指導される側のモチベーションを高める意味合いがある」というのも重要な点ですかね。

ケーススタディ・その2」をいつ書くか分かりませんが、何かよい例を目にしたらまた書いてみようと思いますw



P.S.どの程度の指導が「厳しい」かは相手による。

相手が打たれ強ければ(表面的な態度だけでは分からないので、指導を受けにくる頻度も見るべきだが)さほど配慮はいらないが、打たれ弱ければ相応の配慮が必要。

ただ極端に打たれ弱い相手に合わせても、どのみちその相手が成功する見込みは薄いんで、過剰な配慮は不要だと思うが、「打たれ強い」相手しか指導できないと、生産性や人材育成の効率はかなり下がる。

まぁその数少ない「打たれ強い」相手が後に大成して「○○先生の指導のお蔭で…」なんて話をすると、「指導は厳しい方がいい」なんて妄言が流布するわけだけど。

…あ、この場合の「厳しい」は「緻密」ではなく「過度の叱責を伴う」とかそういう意味ね。

緻密(管理)と大雑把(放任)であれば緻密の方がおそらく好ましいでしょう。