学閥とか

前回のエントリで『不平等社会日本―さよなら総中流』という本を紹介しました。

不平等社会日本―さよなら総中流 (中公新書)

不平等社会日本―さよなら総中流 (中公新書)

で、筆者の主張に対する私の感想は前回のエントリのとおりなんですけど、本筋と離れたところでもいくつか面白い見解が書かれていたので、それについても私なりの意見を述べたいと思います。


「なるほど!」と思ったのは以下の内容。
日本の選抜システムの問題点として「ペーパーテスト」を挙げ、「では面接や小論文はどうか?」「それも別種の問題があるよね」てな具合で話が展開して、以下の文章。

最近は「個性重視」というかけ声の下、面接や小論文を試験にとりいれるところも多くなったが、面接や小論文では、誰が面接をするか、誰が小論文を読むかによって評価がどうしても左右される。(中略)だから、面接や小論文ではできるだけ多くの人間が評価にあたるようにするのだが、それでも消去できない偏り(バイアス)が発生する。特に大きいのは文化的同質性である。人間には自分と似た人間を高く評価するくせがある。

ゆえに、選抜する側(大学の試験官とか)が一定の文化的特性を共有していれば、当然それに近い特性を持った学生が高く評価されるのだ、という主張です。
ここら辺は多くの方が納得する内容ではないでしょうか。


さらに「選抜システム(入試とか)以外にもそういう例がある」として、以下の文章。

あるいは「学閥」を思いうかべてもらってもよい。同じ大学の先輩の上司が後輩の部下を高く評価するのは、必ずしも「学閥をつくろう」という意識が働いているわけではない。(中略)また、部下が失敗した場合でも、なぜ失敗したか、部下の身になって考えやすい。(中略)学閥というのはたんなる権力抗争ではなく、むしろこうした評価心理の産物なのである。

なるほどね〜。
「会社内の学閥」が実際にどのようなものか分かりませんが、複数の大学で研究した経験から、「それぞれの大学のカラー」と「それにマッチした人材」というのは確かに存在するなぁ、と感じます。


まぁそういう「学閥」とか「大学入試」における「文化的特性」ってのはかなり多様で、一元的に評価できるものではないのでしょうが、あえて単一の軸で捉えると以下のようになるのではないかと思います。


大学のレベル:   低偏差値<−−−−−−>高偏差値
教授(上司)の特性:放任<−−−−−−−−−−>管理
学生(部下)の特性:試行錯誤<−−−−−−>知識利用


当然のことながら、「放任型」の上司のもとでは自分で試行錯誤する部下の方が伸びるし、「管理型」の上司のもとでは、指示やアドバイスを的確に理解しそれに従って問題解決に当たる部下が重用されます。
そういう理由で、背景(出身大学)の似通った上司と部下の方がうまくいく確率が高いんじゃないかと私は思うのです。
…まぁ「管理」とか「放任」という言葉の定義もあいまいですし、異論があるかもしれないですけどね。


ちなみに日本とアメリカを比較した場合は以下のようになると思います。
日本<−−−−−−−−>アメリ
放任<−−−−−−−−−>管理
試行錯誤<−−−−−>知識利用


「え、逆だろ!?」と思いました?
いやまぁ「管理」や「放任」の定義によっては逆になるかもしれないんですが…
私がここで言ってる「管理」とは、「中央集権的で上司の指示は絶対」ということでなく、「ノウハウを確立→集積→共有し、それに基づいて各人が動く」といったような意味なのです。
だから、「あいまいな指示しか出さないのに、自分の思ったように部下が動かないと怒鳴りつける」なんて上司は、私の定義では「放任型」。
逆に「十分な教育をした上で、ある程度部下の裁量で仕事をやらせる」というのは「管理型」になるかもしれません。個々の仕事は指示されてなくても、知識の共有は図られているので。


…日本はもっと「管理型」にならないと世界から置いてかれるんじゃないの?