日本の美学と人材育成の困難

日本には特有の価値観が根付いていると思いますが、最近私はそれが日本の組織の不合理な体質・人材育成の失敗に繋がっているような気がしています。
そんなわけで、日本特有の「美学」とその弊害についてちょっと考えてみたいと思います。


日本の美学その1:「自らを窮地に追い詰め、そこで力を発揮するのがカッコイイ」


よくいますよね、そういう人。
実際人間には、「追い詰められることで集中力が増す」という特性があると思いますし、そういう状況では脳内でノルアドレナリンやら何やらが分泌されてハイになっているので、その状況を「心地よい」と感じる人がいるのは事実だと思います。
また小学生などは、「直前まで何もやっていなかったのに締め切りに間に合った」ことを自分の能力の証明と考えたり、「直前まで放置しておけるのは、肝が据わってる証拠だ」などと考えたりします。


でもそれは仕事を片付ける最善の方法でしょうか?
計画的に仕事をこなせば、一日あたりの仕事量は減りますし、余った時間で仕事の質をさらに高めることもできます。
そういった習慣が身に付けば社会に出てから大いに役立つのですが…
でも日本人はそういったスキルが重要なものだとイマイチ認識してないみたいですよね。


また、こういった考え方はキャリア設計にも反映されている気がします。
つまり、一つの職業(場合によっては会社)に人生を捧げ、他の生き方は考えるべきではないと。
これも「退路を断つことで目の前の仕事に集中する」という意図なのでしょうが、現在の仕事に行き詰ったときには人生計画が破綻するわけなので、とても正気の沙汰とは思えません。
しかしこういった職業観を持っている日本人は、会社や大学の指導者の中にも今だに多数存在します。



日本の美学その2:「何でも自分で試行錯誤し、自分で問題解決するべきだ」


日本人には「マニュアル人間」も多数いますが、逆に「一切のマニュアルは不要である」というマニュアル不要論者もいます。
そういう人間は他人を教えるとき、何らアドバイスを与えずに「自分で考えろ」と言い放ちます。
確かに、自分で試行錯誤して身に付けた知識・技術は応用しやすいというメリットがありますが…


私は結局のところ、全てをマニュアルに頼るマニュアル人間と同様に、マニュアル不要論者も不合理な行動を取っていると思います。
当然のことですが、同じ課題に取り組む場合、マニュアルを見たほうが自分で試行錯誤するより早く正解に辿り着けます。
場合によっては試行錯誤することで、後の業務に主体的に取り組めるようになると思うのですが、本来の仕事とはかけ離れた、瑣末な作業で試行錯誤することは、時間当たりの生産性や成長の度合いから考えて合理的と言えるでしょうか?


無難な結論ですが、マニュアルの存在を最初から否定するのではなく、必要に応じて使うことが重要だと思います。
また日々の業務のうち、瑣末だと思えるものに関しては、積極的にマニュアル化を行い、業務の効率化を図るべきでしょう。



日本の美学その3:「上に立つ者も必ず下積みを経験すべきだ」


この考え方には「下で働く人間の苦労を知っていない人間は上に立つべきでない」という職業倫理的な面と、組織内の業務が見渡せるジェネラリストを育成したいという戦略的な面の両面があると思います。
確かにそういったキャリア形成(?)を行うメリットもあるかもしれませんが、いくつかの点で不合理だと思います。


まず、雑用やプロジェクトの下流の作業が増えれば、その分責任ある仕事や教育の享受に割く時間が少なくなります。
現在日本の企業で、専門的な問題に対応できる幹部が少ないのはその弊害と言えるでしょう。
また「雑用をやるのは新人の時だけ」ならまだいいのですが、大学教授や、小中高の先生が瑣末な事務書類の作成まで行っているところにも、上記のような美学が反映されている気がします。
もちろんこれは、専門技術を持った人物に専門性を必要としない仕事をやらせているわけですから、社会的損失に繋がります。
実際、日々の雑務に追われて授業内容の改善まで手が回らないといった声をよく耳にします。


また、「組織に入ってからいろいろやらされる」という場合、自分の持っている専門性を生かせるのかどうかが自分の意思で決定できず、主体的なキャリア設計が困難になります。
「ジェネラリストは一度組織から出ると再就職しづらい」という傾向もありますから、このような戦略は雇用の流動化を妨げる一因にもなっています。


さらに、「上の人間が下のことも知っている」ことは重要ですが、本当に仕事を経験させる必要があるのでしょうか?
経験することで見えてくることもあると思いますが、大部分は下から上への情報の吸い上げが適切に行われれば解決することだと思います。
半端な経験しかしていないにも拘らず「自分は下のことはよく分かっているから、声を聞く必要はない」などと考えてしまう虞もあります。
これは組織の直面する課題が日々変わっていく昨今では、特に危険な傾向と言えるでしょう。



日本の美学その4:「耐え忍ぶことが美徳。軽々しく不満を口にすべきでない。」


これはいかにも日本人的ですね。諸外国では考えられないでしょう。
さすがに現代社会では、こういった理念を盲信してる人は少ないと思いますが、それでも無理な仕事や長時間の残業に不満を抱きつつも淡々とこなす人が日本には多い気がします。
確かに、リーダーの判断が常に的確であれば、部下は黙ってその命に従ってくれたほうが、組織は効率的に動きます。
しかしリーダーが判断を誤ればチーム全体が間違った方向に進むことになりますし、軌道修正しようにも部下が上司に進言する文化が形成されていなければ、リーダー自身が誤りに気づかない限り不可能です。


もちろんこういった企業風土は、若手の士気を下げ、また過剰な精神的・身体的ストレスを与えることになります。
さらに、部下を扱う上司の側も、自分の指揮に対してフィードバックが得られず、また表面的には上手くいってるように見えてしまうため、管理職としての能力が育成されません。


また、上記のような価値観が浸透している企業では、サービス残業などが常態化しますが、「サービス残業によって成り立つビジネス」は破綻が近い証拠ですし、部下にサービス残業をさせることが最初から不可能であれば、経営合理化や技術のイノベーションなどによる抜本的な解決策が早い段階から検討されたはずです。
このように「耐え忍ぶ」文化は、真に見据えるべき問題から目を逸らす原因にもなります。



まとめというか私見


上記のような日本人の「美学」は、DNAに組み込まれてる部分もあるのかもしれませんが、多くは伝統的な価値観に根ざしたものだと思います。
日本の伝統的な価値観とはどういったものか?
それは「一人の君主が国民を従えるのに都合のいい価値観」です。


戦後の混乱期や、高度経済成長期には、有能なリーダーに従い、また逆境を労働意欲に変える価値観はある程度機能したのでしょう。
しかし現代のような多様化・WLB重視の時代にはそういった価値観は適合しません。


私がこのエントリを書いた理由は、例えば「(代替案を用意しない)一本線のキャリア設計」が不合理だということは、ある程度認知されてきてると思うのですが、根っこのところにある「追い詰められて力を発揮するのがカッコいい!」的な価値観の是非は問われていない(無条件に受け入れられている)気がするからです。
日頃「追い詰められて力を発揮するのがカッコいい!」的なことを主張する人は、理屈でその不合理性に気づいていても、ついつい偏った判断やリスクの大きいキャリア設計に陥る可能性が高いです。
また、そういった言動は部下や同僚にも影響を与え、彼らの判断を誤らせる要因にもなり得ます。


このエントリが、将来進んでいく方向性と、それを支える物の考え方について、再考するきっかけになれば幸いです。