大人と子供のコミュニケーション・ギャップ

大人が「子供のため」にアドバイスをしても、それが子供に伝わらないことってよくありますよね。

「たまにしか理解されないのは仕方ない」とか「すぐ理解できなくてもいつか分かってくれるだろう」とその場でのコミュニケーションを半ば諦める方が多いようですが、「伝わらない理由」についてよく考えてみれば、相互理解が進むのではないでしょうか?

…まぁ抽象的な話だけでは「理解しづらい」と思うので、ケース・スタディで。


ケース1:
大人「ちゃんと勉強しないと将来苦労するのよ!」
子供「はーい!(と言いつつゲームをするw)」


この場合、大人の意図としては、勉強しないことによるリスクを子供に「伝え」、子供が勉強するように仕向けたかったわけですが、実際にはほとんど何も伝わっておらず、勉強を促すこともできなかった、というわけです。

伝わらなかった原因は何か?
まず、「苦労する」と言われても、具体的にどういう状況になるのか、子供には分かりません。
では「将来就職できないよ!」と言ったらどうでしょう?
この場合でも、「就職できない」ことでどのような不利益を被るのか、子供はよく分からないでしょう。
「将来お金に困るよ!」といっても、現代の子供が貧乏の苦しさをリアルに想像するのは難しいと思います。
「生活のために嫌な仕事を毎日することになるよ!」と言ったらある程度伝わるかも知れませんが…


いずれにせよ、上記のような「AならBだ。だからCすべきだ」という論理を相手に「理解させる」ためには、以下のことを示す必要があります。

  1. 「A」「B」「C」はそれぞれどういう状況(or行動)なのか具体的に
  2. なぜ「AならB」で、「Cすべき(CによってBが回避or誘導できる)」なのか


大人が子供にアドバイスして伝わらない場合、そもそも状況や行動を子供に理解できる形で伝えていない場合があります。
例えば上記の例だと「苦労する」という表現。
大人にとって「苦労する」とはどういう状況なのかある程度共通の理解があるのでしょうが、子供にあるとは限りません。
似たような環境で生きてきた大人同士であれば、抽象的な言葉を使っても解釈がそれほどズレないものですが、それは彼らがそれまでの人生で似たような経験をし、両者が言葉の意味を(同じような形で)確立しているからなのです。
抽象的な言葉が伝わるのは、「経験があってこそ」であり、相手が同じような経験を経ていない場合には、伝わる保証はありません。


その場合にはどうしたらいいのでしょうか?
先ほど「具体的に」と書きましたが、表現が具体的でも相手が実感できなければうまく伝えることはできません。(例えば「苦労する」を「年下の上司にこき使われて屈辱的な思いをする」と言い換えても子供には伝わらないでしょう)
ポイントは「相手が自分の経験から、状況を想起できるようにする」ことです。
つまり、「相手が経験してるであろうこと」を使って、自分の伝えたいことを表現する必要があるのです。


例えば…
「昨日○○ちゃんは、やりたくないのに先生に全校集会の片づけをやらされて嫌だった、って言ってたでしょ?勉強して自分の得意なことを身につけておかないと、大人になってからもそうやってやりたくない仕事をやるハメになるのよ!」
とか言ったら少しは伝わるかもw


まぁ先ほど述べたように、相手の理解を促すためには「具体的にどういう勉強をすべきなのか」とか「勉強と将来の仕事の因果関係はあるのか」とか、そういうこともちゃんと伝えなければならないんですけどね。


…ずいぶんと手間がかかってしまうようですが、相手に「言うことを聞かせる」もっと楽な方法もあります。
「親の言うことは正しいのだからおとなしく従え」と恫喝する方法です。
確かに、この方法でしばらく子供に言うことを聞かせることもできるでしょう。
しかし決して長くは続かない。なぜか?


「本人の経験に基づいたアドバイスのほうが、感情が喚起されやすく効果が大きい」ということもあるのですが、その発言の後で親が何か間違いを犯すことが当然あるので、その時に「あ、お母さんも常に正しいとは限らないんだ!じゃあお母さんの言うことを信じて大丈夫なのかな?」と子供は考えてしまいます。
「では決して間違いを犯さなければいいのか?」そうではありません。そんなことはそもそも不可能です。


上記のケースでは「親の言うことは正しい」というあまりに大雑把な仮定に基づいていることに問題があります。
仮定が大雑把ということは、仮定が成立しない場合もあり、アドバイス(論理)自体が意味を成さないケースがある、ということなのです。


ではどうすればいいか?仮定がもっと緻密であればいいのです。
例えば、「お父さんは医者で病気を治すのが仕事だから、病気にかかったときはお父さんの言うとおりにしなさい」。
ここでの仮定は「父親の医学に関する知識は正しい」というもので、そういうやや緻密な(限定された)仮定であれば、ふだんのささいな間違い(芸能人の名前を間違えた、とか)によって崩れる(信憑性が下がる)ことはないわけです。


ただまぁ多少条件を緻密にしたところで、上記の例は結局、他者に判断を委ねる受動的な物の考え方なので、他者(親)がアドバイスをくれなければ何もできないし、それが信頼できるかどうかも他者(親)の行動でしか判断できないので、汎用性も発展性もありません。
子供の経験に基づいたアドバイス(≒特定の仮説に基づいた戦略の提示)を行い、子供が自分の経験を基に状況を判断できるようになれば、それ以降、子供は自分で少しずつ仮説や戦略を修正し、より正確で一般性のある判断ができるようになっていくのではないでしょうか?


…あ、いろんな例を出そうと思ったのに、「例1」だけでこんなに長くなってしまったw
まぁ続きは次の機会に。「コミュニケーション」や「教育法」も私にとって重要なテーマなので、いずれまた書くと思います。
それでは〜ノシ