物事の順序

中教審の答申が話題になっているようです。
曰く、「5年制の博士課程の2年修了時点で、特定の研究テーマについてまとめる修士論文を原則的に廃止。代わりに幅広い分野についてテストやリポート審査を行う「クォリファイング・イグザム」の導入を求めている」
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110131/edc11013122040003-n1.htm
グローバル化社会の大学院教育~世界の多様な分野で大学院修了者が活躍するために~答申:文部科学省


ちなみにtwitter上での反応をまとめてみました。
中教審の提言に関して - Togetter


賛否両論あるみたいですが、私は大雑把な方向性としては間違っていないのではないかと思います。
この答申にしろ、中教審の大学院部会でなされる提言はどれも要は「アメリカに倣え」という内容なのですが、優秀な人材を多く輩出し、(分野にもよりますが)研究レベルも突出しているアメリカの大学に倣うというのはある意味理に適っています。


ただ「大雑把な方向性」としては悪くないのですが、答申の内容を数年後から実施して日本の大学院教育が向上するかと言ったら、おそらく向上しないと思います。


上記の「まとめ」を見てもらっても分かるのですが、実は既に答申の内容に近いカリキュラムを実施している大学院は存在しています。
んで、私は知人が何人かそういった教育を受けているので、学生からそのカリキュラムがどのように評価されているか知っているのですが、要約すると「基本的に失敗」


理由はいくつかあります。
まず一つは、せっかくコースワーク(複数の研究室での研修など)を実施しても、博士課程の後半で指導する指導教官が学生の裁量を認めず、また他研究室の技術を生かそうという発想も持っていないため、コースワークで身に付けた知識・技術が生かされない、という問題です。
最近では少しずつ変わってきているのかもしれませんが、基本的に日本の大学の研究室は閉鎖的で、同じ専攻内であっても他研究室との交流は活発でないのが一般的です。(学生同士の個人的な交流はあるとしても)
ゆえにコースワークをこなした学生を、その知識を生かす形で教授が指導することは、かなり難しい。


また、博士課程(5年一貫)の最初の2年でコースワークを実施した場合、知識や技術は身についても、研究自体は進んでないわけです。
残りの3年で急ピッチで研究し、論文を何本か投稿し、博士論文を書くわけですが、学生がこれをこなすためには、指導教官に高い指導力が求められます。
現在の日本の大学院での指導は、研究室によってまちまちです。
教授が明確に方向性を打ち出し、学生はそれに従って研究していれば論文が書ける(それはそれで問題なんだけど)所もありますが、むしろ放任型でなかなか研究が進まないところが多数派でしょう。
こういう研究室では、(仮に博士後期からの学生を受け入れていたとしても)修士から連続での5年間、あるいは卒研からの6年間をフルに研究に費やして、どうにか論文を書くというケースが多いです。
つまり、多くの日本の大学教授に、3年で学生に研究をまとめさせるだけの指導力はない、ということです。


「コースワークとその成果を確認するクォリファイング・イグザムで、自力で研究できるだけの能力が身についていれば3年で十分」ということなのかもしれませんが、そのレベルの能力を大学院の2年間で習得させるのは難しい気がします。
アメリカの大学院である程度それができているのは、学部卒の段階でそれなりの知識と思考力が身についているからではないでしょうか?
(追記:このエントリを読んで下さった方のご指摘で気づきましたが、アメリカの場合、コースワーク後に3年で学位を取得できるケースはそう多くないですね…日本で実施する場合、3年ほどで取得させるなら「どうやって短期間で研究をまとめるか」という問題が生じますし、アメリカ同様に4・5年かけて学位を取らせるのであれば、「その年数に見合うだけの対価が得られるのか」や「30歳前後でもキャリアの選択肢があるのか」といった疑問が出てくると思います)
日本の大学は「入るの難しいが出るのは簡単」ですから、学部卒の段階で基礎的な研究能力が身についているケースは稀だと思います。
大学院の2年間でアメリカの学生と同じ水準まで育てるのであれば、学部の教育内容・卒業要件等も見直す必要があると感じます。


上記の問題(特に後者の問題)を解決するのは容易ではないのですが、博士一貫教育(コースワーク含む)を実施する前に「複数指導教官制」を定着させることで、ある程度新しいシステムへの移行を円滑にできるのではないかと思います。
要はメインの指導教官以外にサブの指導教官もつけるということなのですが、それによってある程度、研究指導の質の担保と、専攻内の協力体制が整うのではないかという発想です。
「複数指導教官制」に関しては、以前エントリを書いているので、そちらも読んでみて下さい。
複数指導教官制 - jotunの独り言
あと以前twitter上でその話題が出たこともあるので、そちらのまとめも。
いかにして大学院教育の質を担保するか?


ちなみに、ページの上段の中教審のまとめにも、すでに実施している先生方の感想が含まれていますね…
おそらく大学によって上手くいってたり、苦戦してたりと成果はまちまちなのでしょうが、概して先生方からは「上手くいっている」、学生からは「上手くいってない」と、逆の感想が聞かれるのが興味深いところw
まぁ導入は一筋縄ではいかないと思うのですが、私は時間(と手間)をかけてでも導入する価値のあるシステムだと考えています。


…「複数指導教官制」を実施した後でなら、中教審が提案したような「コースワーク込みの5年一貫教育」が上手くいく、という保証はないのですが、少なくともそちらを先に実施し、定着させてからでないと、成功の見込みはほとんどないと思っています。
まぁ「複数指導教官制」に関しても、中教審で類似の提言がなされているのですが、どのシステムを優先的に採用すべきかといった視点は中教審の答申からは見えてきません。
これは非常に危険なことだと思います。


おそらく研究に携わっている方でなくても「ポスドク1万人計画」という言葉は聞いたことがあると思います。
ポスドク(博士号を取得した流動的なポストの研究員)を増やし、産業界も含め研究のレベルを上げようという目論見だったのでしょうが、結果的には安定したポストに就ける見込みのない博士を増やすことになりました。
この件に関しても、大雑把な方向性(「ポスドクを増やし、産業界も含め研究のレベルを上げよう」)が完全に間違っていたわけではないと思います。
…というか、基本的に文科省中教審)の方針は「アメリカに倣え」で、アメリカで上手くいった制度を採用しているので、少なくても特定の条件(アメリカ)では成功する制度なわけです。
にも関わらず、失敗したのはなぜか?
それは「日本とアメリカの(社会全般の)違いを考慮していなかった」ことと、「実施する施策の順序を間違えたこと」だと思います。
(ある意味両者は同じことかもしれませんが)


アメリカでポスドク(というか博士取得者)が社会の様々な所で活躍している背景には、大学および大学院での充実した人材育成のシステムと、博士号取得者を活かすことのできる雇用システムがあります。
残念ながらこれら2つの前提条件は、いずれも日本では成立していません。
今回の中教審答申にある「コースワーク込みの5年一貫教育」はそこを補うためのものなのかもしれませんが、ポスドク(というか博士課程入学者)を増やす前に行うべきだったと思いますし、それに加えてアメリカと同様の雇用システムを確立する必要もあります。
アメリカの雇用システム」と一口に言っても、様々な要素があるわけですが、少なくとも「雇用の流動性」は不可欠な要素でしょう。
日本の企業が博士を採用したがらない理由として、「雇ってしまったら解雇しにくいので、会社の色に染まれる(若くて専門的な教育を受けていない)人間が欲しい」というのもあると思いますし。
…まぁすでに実施してしまった政策を批判してもあまり建設的ではないのですが、とりあえず博士課程の定員については再度見直し、少なくとも上記の条件が揃うまでは縮小すべきだと思います。


…こんな具合に、「日本の教育政策は順序(細部)を誤っている」というのが私の印象です。
ではなぜそんな事態になったのか?
そこには、日本の官僚システムの機能不全があると思います。


文科省は、2001年の中央省庁再編に伴い、旧文部省と旧科学技術庁が合併してできたわけですが、大学・大学院教育を担当していたのは旧文部省の高等教育局であり、担当する官僚の多くは事務官(法律、経済等が専門)です。
事務官の多くは文系出身で、また学部卒の方が多い。つまり、大学院内部(特に理系)の状況を知っている方は少ないのだと思います。
最近では技官(理系科目が専門)も高等教育局に配属されるケースもあり、また文系でも大学院出身者(ほとんどは修士だけど)が増えているので、そういう方はある程度大学院の実情が掴めているのかもしれませんが、おそらくまだ少数派でしょう。
つまり、政策立案を行う官僚自身は、日本の大学院の実態について十分な情報を持っていない。


もちろん、彼ら自身もそれは承知しているでしょうし、十分な情報を持たずに政策立案をする危険性も理解していると思います。
ゆえにどうするか?
そういった際には、中央教育審議会のような諮問機関の意見を参考に政策立案を行うのでしょう。
日本学術会議などの意見が影響する場合もあるようですね…
中教審のメンバーの中には、「本当に教育に関して詳しいのか?」と疑問を抱いてしまう方もいますが(http://bit.ly/dE0jDT)、世界各国の教育制度に詳しい学者の方も含まれている。
主にそういう方が中心となって提言を行うのだと思いますが、そういった方が詳しいのはあくまで「制度」についてであって、必ずしも日本の大学(院)の実情を把握しているとは限らない。
また著名な研究者の方も含まれていますが、過去に優れた研究をされた方でも、現場を離れて久しい場合、現在の研究現場がどうなっているか十分理解されていない場合があります。
ゆえに、大局的には(数十年のスパンでは)正しくとも、日本の従来のシステムになかなか適合しない案が出てしまうのだと思います。


…結局のところ私は、大学院の実状に詳しい人間を登用するか、著名な学者だけではなく最前線で教育・研究を行っている研究者、あるいは学生からも積極的に意見を募るべきなのだと思います。
そのためには行政のシステム自体を見直す必要があるのでしょうが…なかなか難しそうですね。
しかしそれを行わない限り、現場の実態に即した政策立案はいつまでたっても不可能でしょう。
…何やら悲観的な結論になってしまいましたが、最後に上記のまとめにも含まれている仙石さんのツイートの引用で締めさせて頂こうと思います。

アメリカ被れな意見に基づく直輸入は「ポスドク1万人計画」の惨禍の二の舞となる可能性大。かかる制度の本質の理解と、国情を勘案したカスタマイズ・再設計が肝要です。

うーむ、私もこういう格調高い文章が書けるようになりたいw



〈参考リンク〉

kaz_atakaさんが日米の大学院教育の違いについて、興味深いエントリを書かれているので、リンクを張らせて頂きます。

アメリカ式の大学院教育」と言われてもピンとこない、という方には下記のエントリが参考になるかと。

専門教育に関して悩まれている人へ贈る言葉 - ニューロサイエンスとマーケティングの間 - Between Neuroscience and Marketing

日米の人材育成の考え方の違いに見えるもの - ニューロサイエンスとマーケティングの間 - Between Neuroscience and Marketing

大学院教育で何が出来ると人が育ったと言えるのか - ニューロサイエンスとマーケティングの間 - Between Neuroscience and Marketing


あと、この話題に関していくつか興味深いエントリを発見したのでそのリンクも。

http://htn.to/dPHrzU

「フリー」ビジネスの終焉?

昨日知ったのですが、私も利用しているSmart.fmという語学学習サイトが、有料化されることになったそうです。
英語学習コミュニティーサイト「Smart.fm」3/31にサービス終了へ - はてなニュース
正確に言うと、今あるサイト(iKnow!で英語。ちょっとの努力で、大きな成果を。 - iKnow!)を3月末に閉鎖し、代わりにオープンした新サイト(http://iknow.jp/home)は最初のお試し期間を除き、全面的に課金する(1000円/月)ということみたいですが…
しかしこの手のサイトで「全面課金」ってのは、かなり大胆な戦略。


このサイトが具体的にどういうサイトかというのは、ここでは割愛します。
まぁゲーム感覚で語学の勉強(単語の暗記)ができるサイトと思って頂ければ…
新サイトの方はおそらく「お試し」でアプリを使うこともできるので、興味のある方は試してみて下さい。
TOEIC® > TOEIC 800点を狙え! > TOEIC 800点:リスニング1 - iKnow!(右上の「学習スタート」から実行できると思います)


ちなみに機能が異なりますが、同様に語学学習を行うためのサイトであるLang-8http://lang-8.com/)やLivemocha(Rosetta Stone® - Learn a New Language)では、「基本的に無料だが、課金することでさらに充実したサービスが受けられる」というシステムを採用しています。(「プレミアム・サービス」とかそんな名称で呼ばれてる。)
Smart.fmでも昨年の秋頃に「どんなサービスであれば課金しても使いたいか?」といった内容のアンケートを実施しており、おそらくその時点では「基本的に無料だが、上位のサービスを得るためには課金が必要」というシステムを検討していたと思います。
では、なぜ全面的な課金に踏み切ったのか?


運営側の意図が完全に分かるわけではありませんが、おそらく同業者(Lang-8、Livemocha等)の苦戦ぶりを見て、「プレミアム・サービス(コアユーザーのみを対象にした課金)では採算が取れない」と判断したのでしょう。
この判断が正しいかどうかは今後の展開を見なければ分かりませんが、私はおそらく、ビジネスとしては正しい選択だったと思います。


現在は何らかの形でネットを利用したビジネスが無数に存在します。
そういったビジネスの中には、「無料でまず使ってもらい、気に入ってもらえたら有料版を買ってもらう」というものが比較的多い気がします。
シェアウェア」と呼ばれるソフトウェアは典型的ですし、「無料でも遊べるけど、課金した方が楽しめる」というオンラインゲームもその一種と言えるでしょう。
上記のような語学学習サイトも同様です。
ちなみにその手のビジネスに興味のある方には以下の書籍をお薦めします。

フリー 〈無料〉からお金を生みだす新戦略

フリー 〈無料〉からお金を生みだす新戦略


んで、「なぜSmart.fmはそのモデルを捨てたの?」という話なんですが、上記のようなビジネスは、「無料の段階でどの程度の機能(サービス)を提供するか?」がかなり重要になってきます。
「無料だとほとんど使い物にならない」では、せっかく無料で提供してもなかなかユーザーが増えない(世に広まらない)ですし、逆に「無料で何不自由なく使える」のであれば、お金を払ってさらに高度な機能を手に入れようという気にならないので、これもビジネスとして成立しません。
語学学習関係のサイトの多くは、無料でも多くの機能を提供し、ユーザーを増やすことに成功しているのですが、気前よくサービスしてしまったために、「課金(≒収益化、マネタイズ)」のプロセスで失敗しているように思います。


Smart.fmがもし「基本的に無料」のスタンスを維持したまま、一部のユーザーに対してのみ課金を行おうとしたら、会員数は増え続けたでしょうが、有料会員は伸び悩んだでしょう。
今回のように「原則無料をやめ、全員に課金」することで、ユーザーの増加は見込めなくなりましたが、サイトのコアな機能を評価しているユーザーから確実に収入を得ることができます。
ゆえにユーザーとして今回の有料化は少々残念ですが、ビジネスとしては正しかったのではないかと。
今後、同業のLang-8辺りがどう動くのかも気になる所です。


ちなみに私はSmart.fmのヘビーユーザーなので、今日書いたビジネスモデルの話以外にもいろいろと書きたいことがありますw
まぁ、それはまた次の機会に…

日本の美学と人材育成の困難

日本には特有の価値観が根付いていると思いますが、最近私はそれが日本の組織の不合理な体質・人材育成の失敗に繋がっているような気がしています。
そんなわけで、日本特有の「美学」とその弊害についてちょっと考えてみたいと思います。


日本の美学その1:「自らを窮地に追い詰め、そこで力を発揮するのがカッコイイ」


よくいますよね、そういう人。
実際人間には、「追い詰められることで集中力が増す」という特性があると思いますし、そういう状況では脳内でノルアドレナリンやら何やらが分泌されてハイになっているので、その状況を「心地よい」と感じる人がいるのは事実だと思います。
また小学生などは、「直前まで何もやっていなかったのに締め切りに間に合った」ことを自分の能力の証明と考えたり、「直前まで放置しておけるのは、肝が据わってる証拠だ」などと考えたりします。


でもそれは仕事を片付ける最善の方法でしょうか?
計画的に仕事をこなせば、一日あたりの仕事量は減りますし、余った時間で仕事の質をさらに高めることもできます。
そういった習慣が身に付けば社会に出てから大いに役立つのですが…
でも日本人はそういったスキルが重要なものだとイマイチ認識してないみたいですよね。


また、こういった考え方はキャリア設計にも反映されている気がします。
つまり、一つの職業(場合によっては会社)に人生を捧げ、他の生き方は考えるべきではないと。
これも「退路を断つことで目の前の仕事に集中する」という意図なのでしょうが、現在の仕事に行き詰ったときには人生計画が破綻するわけなので、とても正気の沙汰とは思えません。
しかしこういった職業観を持っている日本人は、会社や大学の指導者の中にも今だに多数存在します。



日本の美学その2:「何でも自分で試行錯誤し、自分で問題解決するべきだ」


日本人には「マニュアル人間」も多数いますが、逆に「一切のマニュアルは不要である」というマニュアル不要論者もいます。
そういう人間は他人を教えるとき、何らアドバイスを与えずに「自分で考えろ」と言い放ちます。
確かに、自分で試行錯誤して身に付けた知識・技術は応用しやすいというメリットがありますが…


私は結局のところ、全てをマニュアルに頼るマニュアル人間と同様に、マニュアル不要論者も不合理な行動を取っていると思います。
当然のことですが、同じ課題に取り組む場合、マニュアルを見たほうが自分で試行錯誤するより早く正解に辿り着けます。
場合によっては試行錯誤することで、後の業務に主体的に取り組めるようになると思うのですが、本来の仕事とはかけ離れた、瑣末な作業で試行錯誤することは、時間当たりの生産性や成長の度合いから考えて合理的と言えるでしょうか?


無難な結論ですが、マニュアルの存在を最初から否定するのではなく、必要に応じて使うことが重要だと思います。
また日々の業務のうち、瑣末だと思えるものに関しては、積極的にマニュアル化を行い、業務の効率化を図るべきでしょう。



日本の美学その3:「上に立つ者も必ず下積みを経験すべきだ」


この考え方には「下で働く人間の苦労を知っていない人間は上に立つべきでない」という職業倫理的な面と、組織内の業務が見渡せるジェネラリストを育成したいという戦略的な面の両面があると思います。
確かにそういったキャリア形成(?)を行うメリットもあるかもしれませんが、いくつかの点で不合理だと思います。


まず、雑用やプロジェクトの下流の作業が増えれば、その分責任ある仕事や教育の享受に割く時間が少なくなります。
現在日本の企業で、専門的な問題に対応できる幹部が少ないのはその弊害と言えるでしょう。
また「雑用をやるのは新人の時だけ」ならまだいいのですが、大学教授や、小中高の先生が瑣末な事務書類の作成まで行っているところにも、上記のような美学が反映されている気がします。
もちろんこれは、専門技術を持った人物に専門性を必要としない仕事をやらせているわけですから、社会的損失に繋がります。
実際、日々の雑務に追われて授業内容の改善まで手が回らないといった声をよく耳にします。


また、「組織に入ってからいろいろやらされる」という場合、自分の持っている専門性を生かせるのかどうかが自分の意思で決定できず、主体的なキャリア設計が困難になります。
「ジェネラリストは一度組織から出ると再就職しづらい」という傾向もありますから、このような戦略は雇用の流動化を妨げる一因にもなっています。


さらに、「上の人間が下のことも知っている」ことは重要ですが、本当に仕事を経験させる必要があるのでしょうか?
経験することで見えてくることもあると思いますが、大部分は下から上への情報の吸い上げが適切に行われれば解決することだと思います。
半端な経験しかしていないにも拘らず「自分は下のことはよく分かっているから、声を聞く必要はない」などと考えてしまう虞もあります。
これは組織の直面する課題が日々変わっていく昨今では、特に危険な傾向と言えるでしょう。



日本の美学その4:「耐え忍ぶことが美徳。軽々しく不満を口にすべきでない。」


これはいかにも日本人的ですね。諸外国では考えられないでしょう。
さすがに現代社会では、こういった理念を盲信してる人は少ないと思いますが、それでも無理な仕事や長時間の残業に不満を抱きつつも淡々とこなす人が日本には多い気がします。
確かに、リーダーの判断が常に的確であれば、部下は黙ってその命に従ってくれたほうが、組織は効率的に動きます。
しかしリーダーが判断を誤ればチーム全体が間違った方向に進むことになりますし、軌道修正しようにも部下が上司に進言する文化が形成されていなければ、リーダー自身が誤りに気づかない限り不可能です。


もちろんこういった企業風土は、若手の士気を下げ、また過剰な精神的・身体的ストレスを与えることになります。
さらに、部下を扱う上司の側も、自分の指揮に対してフィードバックが得られず、また表面的には上手くいってるように見えてしまうため、管理職としての能力が育成されません。


また、上記のような価値観が浸透している企業では、サービス残業などが常態化しますが、「サービス残業によって成り立つビジネス」は破綻が近い証拠ですし、部下にサービス残業をさせることが最初から不可能であれば、経営合理化や技術のイノベーションなどによる抜本的な解決策が早い段階から検討されたはずです。
このように「耐え忍ぶ」文化は、真に見据えるべき問題から目を逸らす原因にもなります。



まとめというか私見


上記のような日本人の「美学」は、DNAに組み込まれてる部分もあるのかもしれませんが、多くは伝統的な価値観に根ざしたものだと思います。
日本の伝統的な価値観とはどういったものか?
それは「一人の君主が国民を従えるのに都合のいい価値観」です。


戦後の混乱期や、高度経済成長期には、有能なリーダーに従い、また逆境を労働意欲に変える価値観はある程度機能したのでしょう。
しかし現代のような多様化・WLB重視の時代にはそういった価値観は適合しません。


私がこのエントリを書いた理由は、例えば「(代替案を用意しない)一本線のキャリア設計」が不合理だということは、ある程度認知されてきてると思うのですが、根っこのところにある「追い詰められて力を発揮するのがカッコいい!」的な価値観の是非は問われていない(無条件に受け入れられている)気がするからです。
日頃「追い詰められて力を発揮するのがカッコいい!」的なことを主張する人は、理屈でその不合理性に気づいていても、ついつい偏った判断やリスクの大きいキャリア設計に陥る可能性が高いです。
また、そういった言動は部下や同僚にも影響を与え、彼らの判断を誤らせる要因にもなり得ます。


このエントリが、将来進んでいく方向性と、それを支える物の考え方について、再考するきっかけになれば幸いです。

世界の英語教育

twitterでイギリス在住のMay_Romaさんという方が、「日本の英語教育はほんとヤヴァイ」みたいなことを呟かれてたので、「ヨーロッパとかだともっとマシなんですか?」と聞いてみました。

http://togetter.com/li/79887


ちなみに私は「学校教育+α(自学)」でとりあえず日常会話程度はできるようになったし、諸外国の人が外国語学ぶ時の勉強量の多さを知っているので、「日本人が英語できないのは教育のせい」という意見を聞くと、
「改善の余地はあるだろうけど、あんなもんじゃない?日本人が英語できないのは(仕事などのニーズに迫られて)必死に勉強しないからでしょ
と思ってたわけなんですが…まぁやはり教育の質にも問題があるみたい。


May_Romaさんが、以下の3つのサイト(PDF文書含む)を教えて下さったので、その内容に沿って欧州や中国の英語教育について把握し、日本の英語教育の問題点について考えてみたいと思います。

http://benesse.jp/berd/berd2010/center_report/global11.htmlフィンランドのケース)

EU諸国内における英語を母国語としない国での小学校英語教育の実際(スペインのケース)

英語教材のオンラインストア - 日本の学校、大学や先生たちに20%割引で各種の英語教材をお届けします(中国のケース)

基本的に小学校教育の話がメインなので、日本の中高の英語教育と直接比較できるかというと微妙ですが、日本でも小学校での英語教育が始まったようですし、参考にはなるかと。



フィンランドの英語教育

とりあえず前提知識としては、北欧は教育に金をかけてるということと、昔からイギリスとの結びつきが強く、英語の重要性が認識されてるということがある。

国により違いはあるものの、早いところでは小学校1年生から、多くの国では3年生から外国語教育を開始し、授業時数は週1〜2時間程度のところが多い。

これはヨーロッパ全体の話。授業時数はそんなに多くないみたいですな。小学1年生からってのはかなり早い気がする。

少人数でのクラス編成で知られるフィンランドの教育だが、英語はさらに少人数に分けて授業が行われる。

やはり少人数でやるのが重要なのか?

中学校段階から英語以外の2言語以上の教育を並行して行うなど、外国語教育全般に非常に力を入れている。
これだけ外国語教育に力を入れている一方で、母語による読解力などの国際学力調査でも世界トップクラスである。

中学から第二外国語ですか…大学でようやく第二外国語を学ぶ日本とはかなり違いますな。
ちなみに後半部分は、「外国語に力を入れたら日本語がおろそかになる」なんて主張が成り立たないことを示してますね。

ヨーロッパの国々での早期外国語教育への取り組みは一様ではなく、近年やっと取り組み始めた国もある。
しかし、多くがEUという共同体で掲げた共通の枠組みを尊重し、歴史的・経済的背景の両面から外国語、とりわけ英語教育に力を入れ始めている。
また、英語のみではなく多様な言語を尊重し、複数言語の習得を目標として教育実践している点は、日本の外国語教育・言語教育とは大きく異なる。

やはり陸続きでEUという共同体もあるので、「他の国から大きく取り残される」ということはあまりないのでしょうね。
第二外国語を学ぶことが英語学習に寄与するのかどうかは興味深いポイントですな。

CEFR…ヨーロッパにおける言語能力を測る共通の基準枠組み。ヨーロッパにおける外国語教育(1)参照

へぇ、そんなのがあるんですね。確かに明確な能力の基準が必要かも。



スペインの英語教育

お次はスペインです。かつての覇権国ですが、最近は国力が停滞していて、ポルトガル、イタリア、ギリシャと共に「PIGS」と呼ばれ、EUでお荷物扱いされてるみたいです。

スペインの教育制度・教育行政は,1978年の新憲法,1990年の「教育システムの全体組織法」,2002年の「教育品質基本法」(LOCE),2006年の「新教育基本法」(LOE)により大きく変わった。
この法律は,各17自治州の文化的で言語的な教育の独自性と多様性を促進するものであり,また教育の地方分権制度をも促進するものであった。
具体的には,情報処理関連教育,早期外国語教育,ヨーロッパ市民教育の3点に重点を置いたものであった。

へぇ、結構がんばってるんですね…

州政府は,英語を使って教科を教えるイマージョン教育を,バイリンガル校(2言語教育校)やトリリンガル校(3言語教育校)で推進している。
予算面や教育資源面で優遇されるということもあり,現在このプログラムを導入する学校が急激に増えてきている。

なるほど、授業自体を英語でやるんですね。
限られた学校にせよ、こういうことができるのは英語に近い言語を持つ欧州の強みかも。

現在バイリンガル校は147校(児童数42,850人)までになっており,会話補助員(ネイティブスピーカー)やコーディネーターと呼ばれる英語学習サポート教員を配置するなど,教育行政からの経済的・資源的サポートを受けている。

マドリード州の英語教育に関する記述。ネイティブの補助員がどのくらいの人数配置されているのかが気になりますが…
英語学習サポート教員ってのがどんな役割を果たすのかも気になりますね。

英語が苦手な子ども達に対しても,反対に得意でもっと力をつけたいという子ども達に対しても,補助の教師(コーディネーター)が,放課後などに個別,または数人ずつ集めて学習させている。
時数については,4年前よりバイリンガル校となり,3歳児から英語教育を行っている。
週25時間のうち9時間の授業を英語で行い,その内訳は,英語5時間,総合3時間,音楽1時間となっている。
指導者は担任と2名のスペシャリストで,1名は音楽を, 《CEIP LEPANTO校にて》もう1名は理科を英語で教えている。

上記は先述の「バイリンガル校」についての記述。3歳からってのはスゴイですね…
なるほど、全ての授業を英語でやるわけではなく、英語以外の数時間も英語っていうことなのか。
しかし、それだけでも英語圏の大学に進学した時の役に立ちますよね。

スペイン英語教育の成果と課題
1 成果
○ 子どもの英語力が伸びてきている。
小学校英語教育に対する各自治体の支援体制が整ってきている。
2 課題
○ 州や地域により取り組みの差が大きい。
中等教育との連携が不十分である。
○ 個に応じた支援体制が不十分である

ふむ。自治体の支援体制ってのは重要かも。でもやはり自治体ごとの差や、生徒個人の差は解消しきれてないみたいですね。

教材に関する話はまぁフツーかな。

次に評価制度について見てみましょう。

児童を評価する手段や方法
マドリード州マドリード
○ イギリスのTrinityが作成する試験を課程ごとに課し,それぞれのレベルに従い認定証明書を与える。(外部評価)
○ 英語で教えた科目における生徒の記録・記録書,英語部,教員会,教育委員会が作成する書類により評価する。(内部評価)
○ 試験は「筆記」と「会話」で,「筆記」はカスティリア語で尋ね英語で答える問題と,英語で尋ね英語で答える問題がある。
「会話」は先生が生徒に質問する方法と,生徒同士が質問し合う方法がある。
2 カタロニア州・バルセロナ
○ 1・2年生は会話を中心にした授業で,英語の試験はない。
○ 3年生からカタロニア州の共通試験がある。4年生〜6年生には「会話」と「筆記」の試験があり,これにより個人ではなく学校全体が評価される。(外部評価)
○ 学校によっては,「会話」と「筆記」の両試験を課し,3ヶ月毎に保護者に連絡している。
1年に1回は保護者を学校に呼び,評価を含めた話題で保護者とコミュニケーションを図っている。

なるほど。外部評価があることと、会話能力についても評価していることは重要ですね。

ALT等のネイティブ・スピーカーの活用
1 文部省の説明
○ イマージョン教育の担当者は,他の教科も英語で教えることができるスペイン人の教員なので,ALTは英語活動補助員として交換留学生が中心であり,英語のネイティブスピーカーの教師の配置は,国全体で約1%程度である。
マドリード州教育省の説明
○ イマージョン校にはネイティブの会話補助員が配置されており,児童の教育に関わるだけでなく担任のサポートを行ったり,教員への英会話研修も行ったりしている。
3 カタロニア州教育省の説明
○ 基本的にALTは置いていない。教員は大学で英語を習得しているので,スペイン人の教員が英語を教えている。発音の面などで学校現場から要請があれば,州で判断しネイティブスピーカーを配置することもある。

その他,教員養成,教員の資質向上のための支援
マドリード州内にあるBritish Councilにおいて8週間にわたる初期訓練講義を実施
2 英国における4週間の英語訓練
3 英国において4週間の英語教育についての手法やバイリンガリズムについての講義
4 他分野スペシャリストの英語講義への組み入れ
5 コーディネーターの姉妹校への訪問
6 教員が姉妹校において各種活動を体験したり,実際に2週間滞在し授業を行ったりするための費用
7 週1回の英会話についての講義及び英語教材の作成
8 採用3年目をむかえた教師に対する2週間に及ぶ再訓練

なるほど…「他の教科も英語で教えることができる教員」ってのは日本にはなかなかいませんよね。
それこそポスドクとか雇ってくれたら、できそうな人も結構いると思うけど。
ネイティブの補助員の数はそんなに多くないみたいですね。
ただ、「担任のサポートや教員への会話研修も行う」ってのは上手い活用法。
教員の養成システムも整っているみたいですね…



中国の英語教育

最後は中国。今勢いのある国です。母語は基本的に英語とは異質。

中国での英語教育が日本と明らかに違う点は、以下の3つに集約できる。
1. 学習者の英語を習得しようとするモチベーションが非常に高い。
2. 英語教育が質的に優れている。課程基準(中国の学習指導要領)の目標が明確であり、授業内容もそれを実現するものとなっている。
3. 英語の学習量が多い。英語の授業時間数は課程基準に基づき多くなっている。

分かりやすいですねw
それぞれの詳細について順に見ていこうと思います。

生徒のモチベーションが高い理由について、それぞれの学校で先生たちに尋ねてみた。まず、世界で活躍するには英語が必要であることを生徒たちが実感していること、子どもの将来を考え、親たちが英語教育に熱心であることなどが、その背景にある。さらに中学や高校では、進学するためには、英語の成績が良いことが絶対条件であることが生徒たちのモチベーションを高めている理由であるそうである。

ふむ、なるほど。

それでは、大学生の場合はどうであろう。中国では、CET (College English Test)という英語専攻ではない大学生の英語能力を測る統一試験が行われている。
(中略)
試験する技能はリーディング、リスニング、ライティング、スピーキングの4技能すべてである。
試験には、Band 4(4級)用とBand 6(6級)用があり、4級は大学生が卒業時に到達する英語のレベルと想定し、6級は4級よりさらに上のレベルである。
ほとんどの大学ではBand 4の取得を卒業条件にしている。また、大学の中には、4級を取得しないと卒業は許すが学位は出さない大学もある。

おお、出口審査!しかもライティングとスピーキング込みってのは大きいですね。
そういえばとあるSNSで知り合った中国の方(フィリピンの大学で中国語を教えている)は、
「中国では大学出る前の試験が厳しいから、それに通ってしまえばTOEFLはそんなに苦労しない」みたいなことをおっしゃってました。


んで次は授業の内容(指導要領)の話。

現行の英語課程基準2001年度版(既に改訂版を準備中)は、従来重視し過ぎてきた文法と語彙知識の解説及び伝授から生徒の言語運用能力を高めることを重視しようとする改革の試みであった。
(中略)
英語課程基準の目標は、生徒の総合的な言語運用能力を育成することにある。
その言語運用能力とは、1)言語技能、2)言語知識、3)意欲・態度、4)学習ストラテジー、5)異文化理解能力の5つの要素から構成されている。
この5つが統合的に機能することにより、総合的な言語運用能力の育成が促進されると課程基準は明記している。
日本の学習指導要領では、意欲・態度、それに関係する学習ストラテジー、さらに、異文化理解能力に関する具体的な目標設定はされていない。

なるほど。まず「文法と語彙知識の解説及び伝授→生徒の言語運用能力の向上」ってのは時代にマッチしたものだと思う。
ふーむ、日本は意欲や学習戦略、異文化理解に関して目標設定がなされていないのか…まぁそれがどういう問題を生じるのかは明確ではないですけども。

総合目標は1級から9級まで設定されており、さらに、上述の5つの要素別にそれぞれの級の到達目標が設定されている。
総合目標レベルの1級は小学校3・4年の到達目標であり、2級は小学校5・6年の到達目標である。その後、中学卒業時で5級を、高校卒業時では8級を目指している。
しかし、現実には、普通高校では、6・7級を到達レベルとし、進学校では、8・9級を到達レベルとしている。

ちなみに中学卒業時の到達レベルである5級レベルの目標を1つずつ紹介する。
リスニング―自然な速度の物語や記述文を聞き取ることができ、物語の因果関係を理解できる。
スピーキング―平易な話題において情報を提供でき、自分の意見を簡潔に述べ、ディスカッションに参加できる。
リーディング―目的に応じて、基本的なリーディング・ストラテジーを使用し、情報を得ることができる。
ライティング―独力で短い文や手紙を書くことができ、教師の指導で修正ができる。

なるほど。具体的な目標が定まっているのは重要ですな…
それにしても中学卒業の段階で「ディスカッションできて手紙を書くことができる」ってのはすごいね。


最後に学習時間の話。

小学校3・4年生では、20分授業が週4回、5・6年生では、20分授業が週2回、40分授業が週2回ある。中学、高校の6年間では、45分授業が週4回ある。
(中略)
例えば、北京師範大学第2附属高校はモデル校であるが、高校1・2年では、45分の英語の授業が週5回、高校3年では週6回ある。

まぁ日本より多いんですかね?小学校で週4ってのはかなりの力の入れよう。

例えば、北京東四九条小学校では、小学1年生から英語を学び、小学校卒業時点で1600語の習得(理解できる単語ではなく、話したり、書いたりすることもできる単語)を目指している。
1600語といえば、中国の中学校の卒業時に身につけていなければいけない単語数に匹敵する。

ちなみに日本の場合は、中学英語の単語数 -中学3年間で、習う単語数ってappleとか全部あわせ- 英語 | 教えて!gooによると、

中学-900語 + 高校-1,300語 合計2,200語が、現在の学習指導要領の語彙数で、それを、新学習指導要領では、3,000語まで引き上げることになっています。

とのこと。日本の中学生の語彙数は中国よりずっと少なくて、しかも中国のトップの小学校では同じ量を小学校で教えているという…
「習得」ってとこも重要かもしれませんね。日本の場合、読むことはできても、聴いたり書いたり話したりすることはあまり求められないので、その域には達していない気がします。



まとめ

うーん、とりあえず上記の資料から日本の英語教育の問題点(改善策)を考察すると、以下のような感じでしょうか。

  • もっと少人数でやるべき。
  • もっと授業数を増やすべき。
  • アウトプット(話す、書く)を増やすべき。
  • ディスカッション、ロールプレイなどを取り入れるべき。
  • 可能であれば、他の教科も英語で教えてみるべき。
  • 学年ごとに具体的な目標を設定すべき。
  • 生徒の能力および学校の取り組みの外部評価をすべき。
  • 大学で出口審査をすべき。
  • 意欲、学習戦略、異文化理解なども養うべき。
  • 教員育成の仕組みを整えるべき。

まぁ実現するには予算が必要なものもありますが…


ちなみに、ちきりん氏のブログ http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/ や、May_Romaさんのつぶやきを読めば理解できると思うのですが、今後は日本国内で十分な雇用が見込めず、何割かの日本人が海外で働くことになると思います。
ゆえに英語教育の充実は急務かと。

ご意見・ご感想等ありましたらぜひお聞かせ下さい。

研究室を決める前に

「明日書く」と言いながら数日放置してましたが、とりあえずtwitter切り貼り日記の第一弾。
東大とお茶の水大学の研究スペースを比較したツイートが流れてきたので、研究室選びに関して一考察を。
まぁ「研究室の選び方」に関してはweb上にかなり情報があると思うので、いろいろ検索してみるといいと思います。
ただし私の持論は、「就活だろうが研究室選びだろうが、世慣れてない人間は失敗する」です。
情報を集めることはムダではないと思いますが、ある程度世間に揉まれて、「人を見る目」や「自分の能力の限界」、「自分が真に望むもの」などが理解できてないと、適切な選択をすることは難しいと思うのです。
そういったことを短期間で身につけることはできませんが、自分が箱入りだという自覚のある人は、(親から十分な仕送りをもらっていたとしても)積極的にバイトなどをして、ある程度世の中(の理不尽)に慣れておくべきでしょう。


(以下、twitterで呟いた内容)


興味深い。私立大の研究室も大概後者のようになる。 @arcatdmz 比較画像; 東大: http://twitpic.com/1lpcnm お茶女: http://twitpic.com/1lozny


以前いた私立大のラボは、人数の割に研究室がせまくて、結構混雑していたけど、学内の研究所にも部屋があったのでどうにかなってた。今はそちらの部屋は使えなくなったので地獄の形相。今いる国立大は、研究室に個人の机が確保できるし、実験室もそれほど手狭ではないの助かってる。


まぁ国立大でもかなり格差があるでしょうが…iPS細胞の山中先生は、NAISTから京大に移られた時、「研究スペースが3分の1になった」と嘆いておられたそうな。今は新しく研究所ができたから贅沢にスペースを使えるんでしょうけどね。それにしてもNAISTは研究環境としてはいいよなぁ…


研究室が狭くて人が多いと集中できないし、実験機器に人が群がると順番待ちなどで好きな時に使えず、生産性も下がる。研究室を選ぶ時はそこら辺も勘案すべき。


しかし「人数の多いラボと少ないラボのどちらがいいか?」って問題は微妙。前者だと先述のように実験機器の順番待ちがあったり、教授の指導がいい加減だったりするが…反面、先輩や同級生の手助けが得られやすい。後者は良くも悪くも教授と濃密な時間を過ごすことになるので、相性の良し悪しが問題に。


私の印象としては「人数の多いラボ=ローリスク・ローリターン」「人数の少ないラボ=ハイリスク・ハイリターン」って感じ。


それにしても、教授とちゃんとコミュニケーションの取れる学生ってなかなかいない。原因は学生のコミュニケーション力不足、年齢差、大学教授の人格に問題、などいろいろある。大概の場合、教授と辛うじて意思疎通できる助教ポスドク、DC学生が他の学生と教授の「通訳」をすることになる。


問題発言だが、ずっとアカデミックにいた教授の半分以上は、他人とまともなコミュニケーションが取れない。社会経験のない学生がいきなりそういう人間と対峙するのが大学院という場。修羅場と化すのは必然。

方針転換

最近はもっぱらtwitterの方でつぶやいてます。
最初の頃はフォロワーもほとんどおらず、何をつぶやいたらいいか分からない状態でしたが、相互フォロワーも増え、twitter上で会話が展開されるようになると、非常に面白くなり、時間のある日はそれこそ一日中twitterの画面を開いているくらいハマっております。


私は元々完璧主義的な傾向が強いため、ブログを書くにしても自分なりに納得いく内容でないと許せない所があります。
それでも以前まではブログが唯一の発信場所だったため、時間を見つけて書いていたのですが、twitterにハマってからは気楽につぶやけるあちらの方が便利になり、ブログの更新は長期間ストップしていました。


しかし、twitterではつぶやいた内容はいずれ誰の目にも触れなくなってしまうので、これではイカンと思い、とりあえずtwitterでつぶやいた内容を元に、草稿的な内容でもいいのでブログに残しておくことにしました。


そんなわけで、中途半端な内容が増えるかもしれませんが、ご容赦ください。
明日以降、twitterをベースに何かしら書いていく所存です。

大人と子供のコミュニケーション・ギャップ

大人が「子供のため」にアドバイスをしても、それが子供に伝わらないことってよくありますよね。

「たまにしか理解されないのは仕方ない」とか「すぐ理解できなくてもいつか分かってくれるだろう」とその場でのコミュニケーションを半ば諦める方が多いようですが、「伝わらない理由」についてよく考えてみれば、相互理解が進むのではないでしょうか?

…まぁ抽象的な話だけでは「理解しづらい」と思うので、ケース・スタディで。


ケース1:
大人「ちゃんと勉強しないと将来苦労するのよ!」
子供「はーい!(と言いつつゲームをするw)」


この場合、大人の意図としては、勉強しないことによるリスクを子供に「伝え」、子供が勉強するように仕向けたかったわけですが、実際にはほとんど何も伝わっておらず、勉強を促すこともできなかった、というわけです。

伝わらなかった原因は何か?
まず、「苦労する」と言われても、具体的にどういう状況になるのか、子供には分かりません。
では「将来就職できないよ!」と言ったらどうでしょう?
この場合でも、「就職できない」ことでどのような不利益を被るのか、子供はよく分からないでしょう。
「将来お金に困るよ!」といっても、現代の子供が貧乏の苦しさをリアルに想像するのは難しいと思います。
「生活のために嫌な仕事を毎日することになるよ!」と言ったらある程度伝わるかも知れませんが…


いずれにせよ、上記のような「AならBだ。だからCすべきだ」という論理を相手に「理解させる」ためには、以下のことを示す必要があります。

  1. 「A」「B」「C」はそれぞれどういう状況(or行動)なのか具体的に
  2. なぜ「AならB」で、「Cすべき(CによってBが回避or誘導できる)」なのか


大人が子供にアドバイスして伝わらない場合、そもそも状況や行動を子供に理解できる形で伝えていない場合があります。
例えば上記の例だと「苦労する」という表現。
大人にとって「苦労する」とはどういう状況なのかある程度共通の理解があるのでしょうが、子供にあるとは限りません。
似たような環境で生きてきた大人同士であれば、抽象的な言葉を使っても解釈がそれほどズレないものですが、それは彼らがそれまでの人生で似たような経験をし、両者が言葉の意味を(同じような形で)確立しているからなのです。
抽象的な言葉が伝わるのは、「経験があってこそ」であり、相手が同じような経験を経ていない場合には、伝わる保証はありません。


その場合にはどうしたらいいのでしょうか?
先ほど「具体的に」と書きましたが、表現が具体的でも相手が実感できなければうまく伝えることはできません。(例えば「苦労する」を「年下の上司にこき使われて屈辱的な思いをする」と言い換えても子供には伝わらないでしょう)
ポイントは「相手が自分の経験から、状況を想起できるようにする」ことです。
つまり、「相手が経験してるであろうこと」を使って、自分の伝えたいことを表現する必要があるのです。


例えば…
「昨日○○ちゃんは、やりたくないのに先生に全校集会の片づけをやらされて嫌だった、って言ってたでしょ?勉強して自分の得意なことを身につけておかないと、大人になってからもそうやってやりたくない仕事をやるハメになるのよ!」
とか言ったら少しは伝わるかもw


まぁ先ほど述べたように、相手の理解を促すためには「具体的にどういう勉強をすべきなのか」とか「勉強と将来の仕事の因果関係はあるのか」とか、そういうこともちゃんと伝えなければならないんですけどね。


…ずいぶんと手間がかかってしまうようですが、相手に「言うことを聞かせる」もっと楽な方法もあります。
「親の言うことは正しいのだからおとなしく従え」と恫喝する方法です。
確かに、この方法でしばらく子供に言うことを聞かせることもできるでしょう。
しかし決して長くは続かない。なぜか?


「本人の経験に基づいたアドバイスのほうが、感情が喚起されやすく効果が大きい」ということもあるのですが、その発言の後で親が何か間違いを犯すことが当然あるので、その時に「あ、お母さんも常に正しいとは限らないんだ!じゃあお母さんの言うことを信じて大丈夫なのかな?」と子供は考えてしまいます。
「では決して間違いを犯さなければいいのか?」そうではありません。そんなことはそもそも不可能です。


上記のケースでは「親の言うことは正しい」というあまりに大雑把な仮定に基づいていることに問題があります。
仮定が大雑把ということは、仮定が成立しない場合もあり、アドバイス(論理)自体が意味を成さないケースがある、ということなのです。


ではどうすればいいか?仮定がもっと緻密であればいいのです。
例えば、「お父さんは医者で病気を治すのが仕事だから、病気にかかったときはお父さんの言うとおりにしなさい」。
ここでの仮定は「父親の医学に関する知識は正しい」というもので、そういうやや緻密な(限定された)仮定であれば、ふだんのささいな間違い(芸能人の名前を間違えた、とか)によって崩れる(信憑性が下がる)ことはないわけです。


ただまぁ多少条件を緻密にしたところで、上記の例は結局、他者に判断を委ねる受動的な物の考え方なので、他者(親)がアドバイスをくれなければ何もできないし、それが信頼できるかどうかも他者(親)の行動でしか判断できないので、汎用性も発展性もありません。
子供の経験に基づいたアドバイス(≒特定の仮説に基づいた戦略の提示)を行い、子供が自分の経験を基に状況を判断できるようになれば、それ以降、子供は自分で少しずつ仮説や戦略を修正し、より正確で一般性のある判断ができるようになっていくのではないでしょうか?


…あ、いろんな例を出そうと思ったのに、「例1」だけでこんなに長くなってしまったw
まぁ続きは次の機会に。「コミュニケーション」や「教育法」も私にとって重要なテーマなので、いずれまた書くと思います。
それでは〜ノシ